大学受験
現代文・小論文講座

曜=pm6:00〜9:00
金曜=pm6:00〜9:00

授業料=月26000円(税込)
入会金5500円(税込)
授業日程表へ 

無料体験
ができます。
体験申込用フォーム
  03-6278-9648
お問合せ用フォーム
方針 
@ 大学入試レベルの説明文・論説文に比重を起きます。前半は比較的平易なものを使い、後半は比較的高度なものを使う予定です。

A その論理的分析を「読むなら書け」の方式で徹底的に行い、読解力・記述力をつけます。

B その分析結果を生かし、要約ないし発展論述の形で、小論文を作成します。 分析用のプリントは、文章読解のもっとも基本に掘り下げたものであり、これに取り組むことでいわば自己訓練的な感覚で読解力・記述力がつきます。もちろん、その後に行う解説も非常にわかりやすいものを心がけます。 このような分析に基づいて理解を深めた上で小論文を作成するので、自動的とまでは言えないまでも、非常にスムーズに小論文が作成できます。


授業日程表へ
ホームページ・トップへ
本文トップへ

塾/小論文・読解・記述指導塾/

現代文・小論文講座の詳しい説明。
現代文の読解力・小論文の論述力 なぜ小論文か? 小論文サンプル

現代文の読解力・小論文の論述力      本文トップへ  


 高校生の読解力や記述力は、進学校といわれる学校へ通っている生徒でも、極めて低い場合が多いといえます。
 その原因としては、
 第一に、生徒自身も学校も、現代文を読むということを文学鑑賞のようなものとしてとらえ、文章を論理的に分析して読むという技術的なトレーニングをしていないということ、 
 第二に、数学や英語などの方が重要だと思い込み、現代文の勉強に関心がうすいこと、
 第三に、国語は日本語だから何とか分かるという漠然とした思い込みがあること、
 第四に、読解力のレヴェルが低いために、新聞の夕刊の文芸欄で論じられているような現代的問題やテーマについてほとんど無知であり、現代文を受容する知的基盤がないこと、などが考えられます。


そこで、どうすれば読解力や記述力をつけることができるか。

 第一に、読解とは文章の論理的分析のことであるという認識に立たなければなりません。論説文については、このことは比較的わかりやすいと思います。
 物語文についても、描写された事実からのテーマの抽象という論理的作業が、読解の核心をなします。しかも、そのようなテーマを抽象するためには、描写された事実が、小説の中でどのような役割・意味を持つかを分析しなければなりません。
 したがって、論説文・物語文を問わず、読解とは文章の論理的な分析作業であるのです。このような認識に立つ必要があります。


 第二に、したがって、読解力をつけるためには文章を論理的に分析する練習を積み重ねる必要があるわけですが、ここで、その論理的分析を容易にし、促進するものとして「書く」という作業が大切になります。


 「書く」という作業は、ただ文章を見ているのと異なり、いったん脳内に取り込み再度出力するという作業ですから、文章の内容を確かに認識させます。

 同時にこの作業は、脳内への取り込みを通して、さまざまな文章を書くときのデーターベースを形成します。たくさんの文章を真似しているうちに、それらとは異なった自分独自の文章というものが書けるようになるのは、このデーターベースの豊かさによるものと考えられます。同じように人まねから入って、技術を上達させるものに、音楽や踊り、あるいは、絵画などがあります。


 さらに、書くという作業をすることにより、文章の論理構造を認識することが容易になります。
 よく参考書などの解説の部分で文章を図解してあるのを見かけますが、それに目を通しても読解力はつきません。それを自分で行うことが大切なのです。これは試行錯誤を要する面倒くさいプロセスであるので、多くの人はしたがりません。ここに一つの壁があります。これを超える努力をするかどうかが、読解力をつけることができるかどうかの分かれ目となります。ですから、これをしないで、読解力がつきませんといわれても、それはまったくその通りでしょう、と答えるほかはありません。

 そして、この面倒な作業が、実は、同時に、文章を書くということの基本作業を行っていることを意味するのです。したがって、このような「書く」という作業を通じての読解は、同時に記述力をつけることにもなるのです。


 第三に、読解力をつけるためには、まず、論理が比較的とらえやすい論説文を使って、その分析を徹底的に練習し、論理的に考える力を磨かなければなりません。

 多くの人が、文字を読みながら何かを頭の中に思い浮かべることが、文章を読むことだと考えているようです。たとえば、漫画を読むときの読み方はこのようなものです。しかし、これは抽象性の高い論説文などにはまったく通用しません。このような読み方では、何が書いてあるのか分からず、「アー、もういやだ」と投げ出すしかないことは幾度も経験済みのはずです。

 物語文の場合でも、それが抽象性の高いテーマを描いている場合、描かれている事実を頭に思い浮かべることはできても、テーマの把握はできないはずです。これは、事実から「テーマ」を抽象するという論理的な作業を必要とするからです。

 つまり、読解とは最初に述べたような論理的分析の作業であり、その力を鍛えるためには、まず論理的な構造が見えやすい論説文を使うのが効果的であるわけです。

 そして、この論説文を使い、「書く」という作業を通して、その論理が十分に把握できるまで分析をします。これは先にも述べましたように、時間のかかる面倒くさい作業であるわけです。ですが、ここではそれに耐えなければなりません。

 ちなみに、科学技術文明の発達と情報化は、人間に便利さをもたらしていますが、この結果、何でも手間がかからず済むのがよいと、多くの人が考える傾向が出てきています。

 テレビショッピングで売れ行き好調のダイエット食品などは、その典型例でしょう。脂肪を固めて排出するから、いくら食べても太らないなどと言っていますが、では、脂肪に解けるビタミンAなども排出してしまうのでしょうか…? 

 それはともかく、なんでも手間がかからないほうがよいと考える傾向は勉強の領域にも押し寄せてきます。「速読術」などというのもその例です。これについては別に論評するつもりですが、このようなスピード化が困難な領域もあるということです。たとえば、恋愛をスピード化したらどうでしょうか、それは幸せなことではないでしょう。恋人同士はいつまでも離れたくないのですから。それは冗談としても、個人の能力の開発もその根本のところはやはり昔ながらの努力によるしかない、ということです。

 昔よりも、情報は早く入手できるとしても、その情報を自己の血となり肉となるものとする能力は昔ながらの努力によるしかない、と言えるでしょう。読解力や記述力をつけるということも、同じように努力のいることであり、手を抜いてうまい具合に力をつけたいなどとは考えるべきではないでしょう。


 第四に、論説文を「書く」ことを通して分析しつくした後は、その文章のポイントと論理構造が手に取るように見えるようになりますから、ここでその文章を要約してみます。これは、その文章の内容を再確認するとともに、自分が論説文つまり小論文を書く場合の論述の仕方の練習にもなるわけです。

 「小論文の書き方」というような類の本もたくさん出ています。そして、そこでは「まず結論を決め、その理由を書け」というようなことが、書き方として示されています。これ自体はまったく正当で何の異論もないのですが、そのような作業をする論理力は、論説文の読解と要約の練習によって培われるものであるということです。特に内容が高度化すればするほど、この訓練がものをいうはずです。


 ちなみに、「要約ばかりやって、小論文を書かないのですか」という質問を受けたことがありますが、これは私から見れば、かなり重症の例です。「要約」ができるかどうかが、小論文を書けるかどうかの鍵になるということを認識していないからです。この種の考え方は、たとえば、ただ文章をたくさん読めば、文章を読んだり書いたりできるようになるとか、アメリカへ留学すれば、英語が読めるようになるだろうとか、いう考え方と類似します。どういう点が類似するかというと、目的に対して方法を考えないという点です。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とか、「めくらめっぽう」などと言いますが、根本にあるのが、思考をしない態度である点で重症だといったのです。


 第五に、こうした論説文の徹底的な分析と要約の練習は、その筆者の思考を自分のものとして吸収することを意味します。つまり、その文章に関するかぎり、その筆者と同レヴェルに近い状態になるわけです。そして、このような作業を積み重ねることで、さまざまな現代的なテーマについて、やはりそれらの文章を書いている筆者たちに近い問題意識と認識を得ることができるようになるのです。こうなってくれば、大学入試レヴェルの文章に関しては、向かうところ敵なし、と言えるでしょう。また、大学へ入ってからさまざまの文章を読んで、さらに力をつけるための基礎を獲得したと言えるのです。 

 第六に、このような読解力・記述力というものは、日本語を道具としての思考力そのものであるとも言えるので、暗記科目のように一朝一夕に(暗記科目でもそれは実は困難)身につけることができるものではありません。論理性が育つ小学校の高学年から、中学受験を経て、大学受験にいたるまでの期間(さらにいえば、一生涯)継続して訓練するのが望ましいと言えます。但し、英語や数学のように毎日勉強しなくても大丈夫です。私の指導の経験からすれば、最低限1週間に3時間程度、1つの文章について、集中して分析を行い、要約を書くという作業をコンスタントにすることで、かなり高度の力を養うことができると思われます。この場合、注意していだきたいのは、通常数ヶ月やそこらで飛躍的に力をつけるなどということは困難だということです。


 こうして鈴木国語では、1週間に1回3時間の授業で、主に論説文を素材とし、その徹底的な論理的分析と要約を行い、読解力と記述力をつけるというわけです。
ただし、コンスタントな継続が必要なことはいうまでもありません。


                      本文トップへ     

なぜ小論文か?     本文トップへ

小論文は、事実や感想を連ねた「散文」とは異なり、「論理」を本質とします。それはある「問題」に対して、「理由付け」をしつつ、「答え」を導き出すという形式となって表れます。その意味で、中学以上の数学で行う図形の証明はこの小論文の骨であるといえます。

では、この小論文の本質である「論理」と、「問題提起」→「理由付け」→「結論」という小論文の形式はどのようにしたら生徒の身につけさせることができるでしょうか。

どこかの大手塾のテキストに書いてあるように「序論」「本論」「結論」や「起承転結」などという説明をしても、小学生は同じ言葉を暗記して繰り返すだけで、実際にそれを使えるようにはなりません。受験では実際に使えない知識は覚えても意味はありません。

ちなみに、これは世の中でも同じことでしょう。たとえば「命の大切さ」ということが学校やマスコミで繰り返されますが、この言葉が大切なのではなく、この言葉の内容を実践することが大切なのであり、学校やマスコミはそれを本当に教えているのかよく考えてみる(反省してみる)必要があるでしょう。実際に役に立たない知識は意味がない。

では、どうしたら小論文の形式を小学生に身につけさせることができるのか。結論から言えば、彼らには理屈で教えるよりも、トレーニングを通して「体で覚えさせる」事が有効です。

これは具体的には要約の練習を通して行いますが、次のような配慮が必要です。

@まず、「問題提起」→「理由付け」→「結論」という論説文の基本形を保った文章で、かつ、平易なものを選びます。

A次に、これに問題をつけます。この問題は、生徒が、「問題提起」→「理由1,2,3…」→「結論」と確認できるようにするためのものです。

B最後に、生徒にこの文章を読ませ、問題を解かせた上で、それをつなげて要約文を書かせます。

 このサイクルを何度も繰り返すことで(月4回の授業で2〜3回くらいします)、生徒は無理なく小論文の基本形を学ぶことができます。


 これは空中回転の練習に手を添えてやるようなものですが、まずここから出発しなければ、空中回転で言えば首の骨を骨折するような結果にしかなりません。逆に、ここから出発すると、多くの生徒が書くということへのアレルギーを克服でき、優秀な者は高校生をしのぐような力を身につけます。また、感想文などのコンクールで金賞を取ったりする者でてきます。


 ちなみに、高校生の多くは小論文が書けませんが、この辺りの訓練を欠いていることが原因であると思われます。

 「要約」の練習をするというと、小論文自体の練習にならないのではないか、と思われる方もいらっしゃいます。しかし、

@第一に、要約文が書けない者が小論文が書けるということはありえないということです。なぜなら、要約文が小論文の基本形であり、要約文の論理・形式が小論文の必要条件をなすからです。

A第二に、一般に小論文といわれるものは、「本文全体を踏まえ…」という趣旨の条件がつくように、慶応でも東大でも、文章の読解と要約を前提とするものであり、やはり要約が小論文の必要条件をなすといえます。

B第三に、小論文が、「具体例をあげて自分の考えを述べなさい」という課題を課す場合には、要約した本文の論理を実際問題(具体例)に応用的に適応できるかどうかが試されているわけですから、やはり要約は小論の必要条件をなします。

C第四に、小論文が「筆者の意見に対するあなたの考えを述べなさい」という課題を課す場合にも、筆者の論理の要点をとらえ、それに対する論拠を示しつつ、賛成するか反対するか、ということが問われているわけですから、やはり要約は小論の必要条件をなします。


D実際、要約のトレーニングを通して、他人の意見を消化し、自分のものとして蓄積すると、次第にいろいろな考え方ができるようになります。「学ぶ」とは「まねぶ」つまり人まねから出発するものだからです。これはスポーツでも芸術でも同じだと思います。自分らしさは他を相当量吸収し終えたところから現れてくるのではないかと思います。

 当研究所は以上のような意味において、小論文のトレーニングをします。



                     本文トップへ      

大学受験小論文のサンプル

テーマ1 監視社会

問題 監視カメラの設置に賛成か、反対か?

答案例

(結論)  反対である。
(理由)
@ 第一に、監視カメラによる無断の撮影は、肖像権、プライバシー権の侵害である。

A 第二に、監視カメラによる監視は、尾行等によるそれよりも危険である。
人は、自分が尾行され監視されているとすれば、不安感と不快感を抱く。ところが、監視カメラに対しては、あまり不安感や不快感は抱かない。だから、監視カメラはいたるところに容易に設置することができることになる。このように監視カメラに対する抵抗感が少ないのは、カメラが動物の視線をもたないことと、移動しないことによると思われる。しかし、このように監視カメラが抵抗なく設置されるとすれば、これは尾行による監視よりもたちが悪いと言える。なぜなら、不安感や不快感ない点で、より容易に監視の効果を挙げられるのであるから。

B 第三に、監視カメラの許容は、国家権力に絶対化への強力な武器を与えることになり、人権保障・民主主義の原理を危うくする。
監視カメラによる監視が問題なのは、個人的な不快感や不安感だけの問題ではない。監視の背後に国家権力が存在するからである。国家権力は監視によって得た情報を蓄積し、誰がいつどこにいたか、どんな行動パターンをとるか、どんな表情をするか、どのような食べ物を好むか、どんな本を買ったのか、誰とあったのか、(カメラに集音装置をつければ何を話したのか)などをすべて知りうることになる。このことは、人権保障のために抑制されるべき、また、民主主義のために国民のコントロールを受けるべき国家権力に対し、これらの束縛を脱すべき強力な武器を与えることになる。

たとえば、国家権力を握るものたちが、国民の半数程度が反対すると見込まれる法案を通そうとするとき、その反対運動の先頭に立つ者達を監視情報のデーターベースから割り出すことは容易なはずである。そして、これらの者達を軽微な法律違反などを理由に逮捕するとか、スキャンダル情報によってマスコミにたたかせるとかの方法によって、打倒し、法案成立に導くということが可能になってくる。これは、終局的には、戦前の日本の特高警察が戦争に反対するとみなしたものを片端から逮捕したのと選ぶところのない事態を現出させかねない。つまり、監視社会の頂点には新たなファッシズムの出現が予測されるのである。
 
このことを反面から見れば、個人が監視されない自由を保障されるということは、単なる個人的なプライバシー権や肖像権の問題ではなく、人権全体の保障と民主主義の原理の存亡にかかわるのである。

*(注) しかし、人々はこのような憂慮すべき重大事態が生じているとは知らず、目前の犯罪抑止などの有用性のために監視カメラの設置を歓迎する傾向にある。それはえさにつられて知らず知らずのうちに網にかかる魚の群れのようにも見える。人々は繰り返されてきた歴史の地すべりに巻き込まれることを再び繰り返す。

C 第四に、監視カメラによって犯罪が抑止されるか疑問である。
監視カメラによって犯人は捕まりやすくなるかもしれないが、犯人は監視カメラがあっても犯罪を犯すのではないかとおもわれる。それは刑罰の威嚇があっても犯罪を犯す人間が絶えないのと同じことである。

D 第五に、犯罪の抑止は地域社会のコミュニティーの創造によるべきである。
監視カメラが必要なのは、地域社会のコミュニティーが崩壊したことと関係があると思われる。監視という他人への不信感を前提にした対応ではなく、近くの他人に配慮できるという人々の間のコミュニティーの新たな創造に真の問題解決の鍵があるように思われる。

*(注) この点に関しては、将来そのようなものを作り上げることができたとしても、現に今起こる犯罪の抑止には役立たないとか、コミュニティーが復活したとしても、なお犯罪は起こるとかの、反論が可能である。


*賛成説 ←こちらのほうが書きやすい。上の内容をひっくり返して使う。
@ 実際の犯罪抑止が急務である状況がある。例=子供を狙った犯罪が次々と起こっている。
A 監視カメラは、監視という心理的影響によって、犯人に実行をためらわせる効果はあると思う。
B プライバシー権・肖像権は、被害者の生命の権利・幸福追求の権利との関係で制限される。
C 国家権力による監視は、人権や民主主義を危うくする危険があるとされるが、監視の方法について厳格な法的規制を設け(監視の目的は、犯罪の抑止に限る・データは1年以内に消去する・データーの利用には裁判所の許可を得るなど)、独立の審査機関により適正な監視であるか事後的に審査をするなどの方法により、濫用の危険を排除できる。


テーマ2 世論

問題 「世論」というものについて、具体例をあげ、君の考えるところを論じなさい。

答案例

 二〇〇五年、郵政民営化法案が参議院で否決されると、小泉首相は衆議院を解散し、郵政民営化の是非を国民に問うという挙に出た。選挙の結果は自民党の圧勝であった。この際に、自民党を支持したのが世論である。しかし、これは現実の世論であり、世論のあるべき姿、理想型ではないと考える。

 民主主義は、「国民の、国民による、国民のための政治」である。しかし、大きな人口と広大な領土を持つ近代国家においては国民一人一人の意思を国政に直接反映することは事実上不可能である。そこで、選挙により代表者を選び、代表者を通して政治をするという間接的な方法をとる。この間接民主制がよく機能するためには、選挙を軸として、政党は国民に論点と政策を提示することで、また、マスコミは政治に関する正しい情報を国民に供与することで、世論を形成し、それを国政に反映させることが必要である。他方、国民も、物事を理性的に判断できる主体的な個人であることが必要である。こうして、理想型としての世論とは、主体的・理性的な判断能力を持った国民に、各政党が論点と政策を提示し、また、マスコミが支持に関する正しい情報を供与することで形成される国民の意思であると定義される。

 そこで、この理想型としての世論という観点から見てみると、先に挙げた郵政民営化選挙に際して形成された世論には次のような問題がある。

 第一に、国民が「郵政民営化」とはどのようなものであるのかについてよく知りよく考えていたのか疑問である。むしろ、ほとんど「郵政民営化」というスローガンしか知らない人が多いのではないかと思われる。つまり、この世論は主体的・理性的な判断能力を持った国民によって形成されたものではないのである。

 第二に、自民党に対立する政党が、論点を明確化し、独自の明確な政策を提示しえたのか疑問である。

 第三に、マスコミの報道姿勢に大きな問題がある。「郵政民営化」是か非かということを、まるで「改革派」と「抵抗勢力」の一大決戦のように脚色し、勝ち負け関する興味本位の報道に終始した感がある。これは、国民に正しい情報を提示するというマスコミの責任を放棄するものであった。

 こうして、無知な大衆、無能な野党、無責任なマスコミによって形成されたのが、郵政民営化選挙で自民党を支持した世論なのである。したがって、このような現実の世論は「情報操作された国民の意思」であるとすら言える。しかし、現代では、世論の理想型とはほど遠いこのような現実の世論が形成されることは常態と化しており、ここに民主主義の危機が潜んでいるのである。


テーマ3 言葉を、鵜呑みにしたり、オーム返しにしたりしないで、批判的にとらえる。 

問題 あなたは「リストラ」「フリーター」「ニート」「勝ち組・負け組」「バツいち」など、今日の世の中でよく耳にする言葉についてどのように考えますか。そのような言葉を一つ挙げ、あなたの考えるところ800字以内で論じなさい。

答案例 

「勝ち組・負け組」について

(注 1200字のもの)
一般に、この言葉は、女性が結婚適齢期内に結婚をしたか、それとも、結婚適齢期を過ぎて結婚しないかによって、結婚した方を「勝ち組」、しなかった方を「負け組」として、区別する言葉として使われている。

 まず、この言葉は、人は一定の年齢の範囲内で結婚すべきであるということを、暗黙の前提としている。しかし、この前提は「婚姻の自由」という基本的人権の思想に矛盾する。なぜなら、「婚姻の自由」」は「婚姻しない自由」を論理的に内包するからである。故に、この言葉は、基本的人権の思想と相容れない言葉である。

 次に、この言葉については、なぜ結婚したか否かが「勝ち・負け」の基準になるのか不明である。結婚に至る過程を一つのレースと観念し、結婚をゴールと考えれば、「勝ち・負け」という基準を一応根拠付けることはできる。しかし、若い女性の人生の目的が結婚のみ限定される点と、人生は結婚後にも続くものである点からして、そのような見方は偏見ないし一面的である。むしろ、このような女性の人生を狭く限定する考え方は、戦前の、女性は結婚して、良妻賢母となるべきものである、という思想と相通じるものがあるのではないかと疑われる。

 第三に、「組」という言葉は、一つの集団を意味するが、何ゆえ、個人に注目し、「勝った人・負けた人」と言わないで、それを集団に帰属させようとするのか不明である。たとえば、交通事故にあった人は「交通事故にあった組」とは言わないし、大学受験をする人も全国レベルでは「大学受験組」とは言わない。思うに、この「組」という言葉の背景には、ある優位的な集団に属していれば安心だという思想(たとえば「親方日の丸」)あるいは、人と違うことをしたりはしないで、できるだけ大勢あるいは体制に順応しておけば安心だという思想がある。このような集団主義的思想はやはり基本的人権の思想が前提とする個人主義の思想と矛盾する。

 以上のように考えてくると、この「勝ち組・負け組」という言葉は、背景に旧来の日本社会の女性蔑視と集団主義の思想にリンクしうるものがあり、そうだとすれば、日本社会の保守回帰を象徴する言葉であるといえる。故に、基本的人権の「自由」や「個人主義」の思想とは本来的に相容れない言葉である。(1200字)


(注 800字のもの)

一般に、この言葉は、結婚適齢期内に結婚した女性と、適齢期を過ぎて結婚しない女性とを区別する意味をもつ。

 まず、この言葉は、女性は一定の年齢の範囲内で結婚すべきであるということを、前提としている。しかし、この前提は「婚姻の自由」という人権の思想に矛盾する。なぜなら、「婚姻の自由」」は「婚姻しない自由」を論理的に内包するからである。

 次に、結婚したか否かを「勝ち・負け」の基準とするためには、結婚に至る過程を一つのレースと観念し、結婚をゴールと考える必要がある。しかし、これは人生に対する一面観ないし偏見である。むしろ、このような女性の人生を狭く限定する考え方には、戦前の、女性は結婚して良妻賢母となるべし、という思想と相通じるものを感じる。

 第三に、何ゆえ、個人に注目し、「勝った人・負けた人」と言わないで、それを「組」という集団に帰属させようとするのか不明である。たとえば、交通事故にあった人は「交通事故にあった組」とは言わない。この「組」という言葉の背景には、ある優位的な集団に属していれば安心だという思想や、できるだけ大勢あるいは体制に順応しておけば安心だという思想がある。このような集団主義的思想はやはり人権の思想が前提とする個人主義の思想と矛盾する。

 以上のように考えてくると、この「勝ち組・負け組」という言葉は、背景に旧来の日本社会の女性蔑視と集団主義の思想があり、そうだとすれば、日本社会の保守回帰を象徴する言葉であるといえる。故に、人権の「自由」や「個人主義」の思想とは本来的に相容れない言葉である。(800字)


テーマ4 歴史観

問題 「歴史観」というものについて、具体例をあげ、君の考えるところを論じなさい。

答案例

 歴史観とは文字通り「歴史の見方」のことであるが、それは今現在の世界の動向を世界史の観点から展望することである。それは、人類がこれまで行ってきた行為の結果として生じた問題に焦点を当て、その複雑な原因を解明し、解決の方向を探ることである。この観点からするとき、世界には、国際テロの問題、イラク問題、イスラエルとパレスチナ中東問題、アフリカのいくつかの国の内戦の問題、北朝鮮の核開発や外国人拉致の問題、イランの核開発の問題、などの戦争、安全保障、国際政治にかかわる問題、地球温暖化、環境ホルモン、水資源枯渇化、などの環境問題、人口爆発や南北の格差の問題など数多くの問題が山積みしていることが分かる。これらの問題は、グローバル化が進む今日、一国のみの問題ではなく、世界のすべての国や一人一人の人間にかかわる問題なのである。このような認識をもつことが、歴史観を持つ第一歩であるといえる。

 ところで、このような観点からするとき、阿部首相の「美しい国を作る」というような政治公約は、世界との緊密な関係を持ち、交際連合の常任理事国入りを目指す国の首相の政治公約となりうるものなのかとの疑問がある。ここには、右に述べたような歴史観の初歩すらないのである。のみならず、歴史的に見て「美しい国」を作ろうとしなかった政治家がいるのかも疑問である。ヒットラーですら、「美しい国」を作るために、ユダヤ人を虐殺したのである。したがって、このような一般的なことはそもそも政治公約たるの名に値しないのである。

 このような歴史観の欠如は、戦前の日本の軍国主義に対する歴史認識の欠如と結びつき、さらに、その反省に立った憲法や教育基本法の否定の方向を歩むことになる。その半面で、かつての日本の歴史を軍国主義化の歴史ととらえることを「自虐的」と感情的にとらえることになる。しかし、例えば入学試験に失敗したものがその原因を反省することは何ら「自虐的」ではない。それは理性的な反省であり、その結果失敗の原因を見つけることは、は未来に向けて生産的な戦略を生み出すことにつながる。これは一国の政治についても当てはまるはずだ。にもかかわらず、「自虐的」ととらえるのは、その反省をすることを自己否定と同じ意味にとらえる自我の危機意識から来るものである。それは自己正当化というきわめて偏狭な自我であり弱い自我であると言える。

 おそらく戦前の日本の軍国主義化を正当化しようとする主張は、中国の台頭に危機感を感じる立場からなされるものなのだ。このまま中国が発展を続ければ、日本は経済的にも軍事的にも負けてしまい、今世界で占めているような地位を失う恐れがある、という不安からなされる主張なのだ。しかし、経済的・軍事的に負けたところで、独自に生き延びる道がなくなるわけではない。また、そもそも、勝つとか負けるとかいう発想でしか、未来の歴史をとらえられないことに問題がある。問題は、日本が今後の世界の中で、どんな道を歩むのが、日本にとっても世界にとってもよいのかということであるはずだ。

 これに対しては、それは「理想」に過ぎ、「現実」にそぐわないとの反論も出てこよう。しかし、現実を変えるのが政治であるべきであり、故に「美しい国」というような「理念」が提示されるのだ。つまり、「現実主義者」ですら「理想論」を唱えるのであるから、「現実」を変えなければならないことについては、奇しくも意見は一致しているといえよう。
 そして、現実を変えなければならないとすれば、その現実のよって生じた原因を究明し、それを除くほかはない。当然それは歴史に行き着く。それは自虐的と感じる以前の、なにが原因なのかという認識の問題なのである。


*(注)勉強のできる生徒がA(米)・B(日)二人がいたとしよう。Aは一番でき、もう一人のBは二番目にできる。ところが、今まであまり勉強のできないと見られていたC(中)が急激に力をつけてきた。Bはもちろん、Aまでも次の次の試験あたりでは追い抜きそうな勢いである。ここで、A・BはCの躍進に対する不安・敵意・嫉妬のために、自分を改善することを忘れて、Cに対して当てこすりをしたり、いやみを言ったりする。一種のいじめである。特にBの態度がひどくてせこい。
そういえば、長野県の知事に作家の田中氏が当選したときに、前知事を支持していた県庁の部長か何かが田中氏の名刺を田中氏の前で破るということをしたが、これも右とどこか似た構造をもつ。
自分が十日でマスターしたものは、相手も十日でマスターする可能性があるし、相手は一週間でマスターするかもしれないのである。競争で大切なのは、自分を変えることであり、相手に敵意を持ったり、嫉妬したりすることではないはずである。



テーマ5 歴史観 2

朝日新聞 05年11月24日 夕刊

「真実を見る目失わずに」 「歴史とどう向き合うべきか」  フランスの歴史家コルバン氏に聞く

問題 記事を読んで、君の考えるところを、具体例をあげて論じよ。(千字)    参考解答は1800字程度


答案例

 氏は「社会の変化が速くなり、新しい情報があふれているために常に今の出来事に目を奪われ」、「現代人は過去や未来に目を向ける余裕を失って、現在に」「執着している」、という。

 まず日本の企業について言えば、この十年余り、一方、不況とデフレの進行の中で、他方、グローバリズムの進行の中で、不良債権の処理、リストラ、企業の再編成に終われ、過去を懐かしみはしても、それを論理的に分析する余裕はなく、まして、未来を夢見る余裕もなく、当然未来に向けた大きなヴィジョンなどなく、ただ生きのびる道を探り続けてきたといえる。このことが、まさにこの例である。

 次に、庶民について言えば、一方、サラリーマンはリストラや賃金のカットの不安にさらされ、他方、雇用形態の変化は大量のフリーターを生み出し、さらに、教育も、雇用も、職業訓練もなされていないニートが大量発生している。このような状況の中で、庶民は日々の生活に執着し、歴史を題材としたテレビ番組を娯楽として享受することはあっても、世界や国家の過去未来について歴史的視点でものを考えようとする態度は失っている。首相や知事などとして、扇情的な政治家が、爆発的な支持を得たりするのは、日々の生活苦や不安を何者かによって救ってほしいという非理性的な願望の現われであり、故に、歴史的視点でものを考える態度が失われていることの証拠である。

 氏は「植民地化の犠牲になった側が過去にこだわるのは当然で、歴史の共有が容易でないという現実に冷静に目を向けることが必要だ。そのうえで時間をかけて議論し、歴史と向き合わなければならない。」という。

 日本と韓国との間には植民地化の問題が、日本と中国との間には侵略の問題が存在し、韓国や中国は過去の歴史にこだわっている。これに対し、日本政府は「未来志向」という言葉を用いて対応している。日本政府の対応には、歴史を共有しようとする態度がそもそも欠けている。当事者の一方の歴史は、他方の歴史であり、歴史の真実は必然的に共有せざるを得ないものである。故に、歴史の共有をめざして、氏の言うが如く、その共有が容易でないという現実に冷静に目を向けることが必要なのである。それは単に過去の過ちを認めるという政治的な行動ではなく、なぜそうなったのかを論理的に考える作業でなければならない。故に、時間をかけそのような問題と向き合わなければならないのである。しかし、中国や韓国をおちょくるような小泉首相の靖国参拝にしても、日本の侵略行為を感情的に正当化しようとする歴史教科書にしても、そこに看取されるのは、共有すべき歴史から目をそむけようとする態度のみである。

 氏は「歴史の知識が失われた社会では真実を見る目も失われてしまう」といい、政治家による歴史の道具化の危険を指摘する。この危険は、日本を神国とした戦前の歴史教育ですでに経験済みのものであるが、現在でも、例えば、日本の東南アジアへの侵攻がアジアの独立の引き金になったなど、「歴史の都合のいい部分を引き合いに出したりして行動を正当化する」ことが歴史教科書や一部の政治家の発言などに見られる。

 氏は「人間には過去のことを知りたいという本能的な欲求がある。好奇心を刺激すれば若い世代も歴史への関心をとりもどすはずだ」という。しかし、好奇心を刺激するにはどうしたらよいのか、また好奇心を刺激するだけでよいのか、という問題がある。実際、修学旅行で広島の原爆ドームや平和記念館を訪れる若者は多いが、彼らが好奇心を本当に刺激されているのか疑問である。



テーマ6 現代人の物の見方

問題 「表象と根源的な問い」という題で具体例を挙げて論じなさい。(400字以内・1200字以内)

 *表象とは、知覚に基づいて意識に現れる外的対象の像をいう。対象が現存している場合を現存表象、記憶によって対象が再生される場合を記憶表象、想像による場合を想像表象という。意識に現れる対象が感覚的具体的である点で理念や概念と区別される。

 

答案例 400字以内

2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロ事件の後、アメリカは対テロ戦争を宣言し、ブッシュ大統領は、これを「善と悪との戦い」であると規定した。この一連の出来事は我々の記憶に表象される事実である。

 このようなアメリカの行動に対しては、テロが悪であることは事実が語るとしても、アメリカが善であるという根拠は何か、テロは撲滅しなくてはならないとしても、その手段は戦争しかないのか、戦争はテロ撲滅のために有効なのか、などの点に疑問が持たれる。さらに、そもそもなぜテロが起こったのか、という根本的な問題も充分に検討されていない。元来我々は表象にだまされやすい。例えば、戦争中の日本人は一般に軍部の流す情報を鵜呑みにし、根源的な問いを発することがなかった。戦争というものが正義の名において正当化されようとするこの時代にも、我々は、表象の奥にかくされている疑問点や根源的な問いに目を向けることが必要である。


答案例 1200字以内

 今日では、人々は物事の「見た目」に注目する傾向が強くなり、その本質について考えるということをしなくなりつつあるようだ。

 たとえば、〇五年のいわゆる「郵政選挙」では、小泉首相の「改革」という言葉を支持した人々が非常に多かったために、自民党は衆議院の三分の二超を占めるにいたった。しかし、「改革」というスローガンの内容をよく知って「改革」を支持した人は非常に少なかったのではないかと思われる。つまり、「改革」という「見た目」で投票し、「改革」の本質は問うていない。このような現象は、〇九年の衆議院議員選挙で「政権交代」という民主党のスローガンが大きな支持を得て民主党が圧勝したことにも現れているように思われる。「政権交代」によって、何がどう変わるのかという本質の検討よりも、とにかく何かよいもののように見えるという「見た目」が優先されている。そして、このような傾向は、選挙に限ったことではなく、社会のあらゆる場面に生じていると思われる。たとえば、コンビニ敬語や一般の定食屋などでの客に対する過剰に丁重な接し方などだ。あるいは、書店に並ぶ本も「見た目」を重視するものが多いようだ。テレビのニュースなども、それ自体がショー化しているし、政治のニュースの次には、スポーツのニュースという具合に、次から次へと異質な多数の情報が流され、政治や経済の「本質」については、目がいかなくなっているようだ。

 このような傾向の第一の原因は、インターネットの普及などに見られる急速な情報化の進行である。人々は目に見える情報や出来事を次から次へと追いかけるようになり、立ち止まってその物事の本質をじっくり考えるということをしなくなってしまった。

 第二の原因は、グローバル化の進行によって市場競争原理がより厳しい形で社会に浸透したことである。「それは売れるものが勝つあるいは正しい」という原理であり、倫理や思想という本質論はまどろっこしいものとして相手にされなくなってしまった。

 第三に、都市化の進行により、生活空間が光に覆われ、暗い闇に接する機会が減ったことも原因として挙げられよう。光に照らされた表面だけに目が向かい、暗い部分や見えない部分を想像する力が衰えたのである。

 人々が「見た目」という「表象」を基準に行動し、その本質について「根源的に問う」ということをしなくなる傾向があるとすれば、表象によって人々を先導するという可能性は高まるのであり、新たな全体主義やファシズムの危険が忍び寄っていると言える。

 本文トップへ
 ホームページトップへ